2014年11月7日金曜日

「記憶」と「忘却」のバランス


私は現在3人の子供を育てています。
子育てに慣れているかというと、まだまだ悩みは絶えない日々ですが、確かに大抵のことでは驚いたり慌てたりしなくなりました。
母親としての感覚が身についてきたのかもしれません。

しかし、忘れていることが多いのです!
最近よく夜泣きするもうすぐ2歳の末っ子。
そういえば昔、長男の時もそういうことが何度かあったような…。
長女の時も数回あったような…。
あの時は結局なんでだったっけ?と同じ悩みを3度繰り返すことがあります。
昔悩んでたことさえ忘れていることも…!
友人と話していると、「長男の時、そんな話してたよね!」と言われて、「そうだっけ?」と思い出したこともあります。
性格の問題もあると思いますが、人は基本的に「忘れる生き物」だと実感します。

そんな時に役立つのが、「育児ノート」だったりします。
おおざっぱな私ですが、子供3人とも、生まれてから1歳になるまで育児ノートを書き続けました。

そこには、その日の様子やその時の気持ちや気づきを綴っています。
一週間の見開き1ページなのですが、先々を見据えてか、私はページ毎に一番右にあるメモ欄に、「忘れない方が良い大切ポイント(気づき)」を青字で書いていました。
2人目、3人目を育てる中で、何か困った時や気になった時には、前の子のノートを振り返り、参考にしていていました。

例えば、夜泣きの理由について。
オムツは大丈夫?おなかはすいてない?眠いのでは?ママにだっこしてほしい?乾燥しているのでは?など、1人目の時に書いていたので、3人目、同じ悩みにぶつかった時、ノートを振り返って、加湿してみたところ解決し、とても助かったことを覚えています。
毎回、1歳の誕生日で日記をやめているので、もうすぐ2歳の末っ子が夜泣きする理由の解決には至っていません…。
やはり、「記録」って重要だな、と実感している今です。

特に嬉しいことや喜びは「忘れたくない!」という想いから、ビデオや写真での「記録」は日々心掛けています。
全て自分の「老後の楽しみ」のつもりですが、今回改めて考えてみて、「悩んだこと」「解決したこと」も記録していこうと思いました。

仕事でも全く同じことが言えると思います。
何か壁にぶつかった時、悩んで考えて対応して解決して成長する。
成長は個人に残っているかもしれませんが、人は「忘れる」生き物です。
だからこそ、しっかり原因・背景・経緯・結果を「記録」し、再発を防ぐことが大切だし、記念となる瞬間を写真に残し、次の世代につなげることも大切だと思います。
人は「忘れる」から「記録する」、大事ですよね。

ただ、「忘れる」ってマイナスなことだけでもないと思います。

大きな失敗をしたり、恥をかいたり、もう立ち直れない!と思うことは誰でもあると思います。
でも、時が経てばそれは自分の中で薄れてくる。
そして同時に、自分だけじゃなくて周りも忘れるのです。
だから気にしなくて良いと思うこともできます。
また、3人目の子供がよくしゃべるようになっても、「当たり前!」と思わず、「初めてのことのように感動」できるように、プラスの感情も新鮮に感じることが出来ます!

しかし、小学校に入学し半年経つのに、相変わらず毎日「忘れ物」ばかりして帰ってくる息子…。
これは改善が必要です!


2014年10月17日金曜日

「誰かの役に立つ」というモチベーション


我が家には3人の子供がいます。
最近一番下の子も意思が強くなり、「ママ、ママ!」期に入り、ますますにぎやかな毎日を送っています。
最近の悩みは寝る直前の「ママの取り合い」です。

最近は寝るときに、真ん中の子をママから引き離そうと末っ子が攻撃をはじめます。
すると真ん中の子も、「私だってママに一番に抱っこしてほしいのにー!」と大泣きです。
確かに真ん中の子もお姉ちゃんとはいえ、まだ3歳。ママに甘えたい年頃です。
インターネットで「3人・子育て・嫉妬」と検索すると、「母親はみんなに『平等に愛しているよ』と伝えるけど、子供からすればみんな、『一番になりたい』と思っています」と書いてありました。

そんな私自身、子供のころ3人兄弟の末っ子で、しかも今の我が子たちより年が近かったので、どうしていたのだろう?と不思議になり、母に聞いてみました。
すると、「覚えてないけど、末っ子のあなたは、忙しい私(母)を助けようといつもお手伝いを頑張ってくれていた」と言われました。
確かに思い返せば、小学校低学年の頃から、おつかいに行ったり、お米をたいたり、休みの日に母を休ませてあげたいと雑巾がけをしていたことを覚えています。

「一番になりたい!」これは子供だけでなく、大人でも同じことがいえるかもしれません。
自分が活躍したい!人より認められたい!という気持ちは、仕事をしていく上でも、みんな持っているのではないでしょうか。

そこで、今の私自身の仕事を考えてみました。
「一番になりたい!」と言わずとも、もちろん「自分も活躍したい」気持ちは大いにあります。
「認められたい」と思います。
でもそれ以上に、「この人(上司)の役に立ちたい。」と思っている自分がいます。
そしてそれにより、自分自身が安定し、自分の力も発揮できているように思います。
幼い頃、母の役に立ちたい、と思ったように。

●大好きな人がどうすれば助かるか
●大切なものにどうすれば貢献できるか
それ自身がモチベーションになることで、いつの間にか自立しているのです。

逆に言えば、この人のために頑張りたい、と思わせる母、上司であるために、私自身が尊敬される自分を目指していかなければなりません。

部下を育てるマネジメントスキルの一つに、自分がお手本となって「みせる」というものがあります。
上司が率先してみせることが、部下の指導の上で有効だというものです。
確かに注意する本人ができていないと、説得力はないですよね。

私の母はとても厳しかったけれど、仕事と家庭を両立し、とにかくいつも一生懸命でした。
私はそんな母の役に立ちたいと幼心に思っていましたし、小さい頃から母に憧れ、「私も大きくなったら楽しく働き、子供を大事に育てたい」と思い続けていました。
母はずっと私に、「みせる力」を発揮してくれていたのだと実感します。

私も部下や我が子たちにもそう思ってもらえるように、「一生懸命頑張る」ことだけは、忘れずにいたいと思います。


2014年9月29日月曜日

大事な時間の本質とは?


先日、歯の奥がズキズキと痛み出したので、歯医者に行って来ました。
診療の結果は、以前治療した詰めものがすり減って、ポロッと取れてしまったとのこと。

その場で詰めものの処置をしてもらい、ついでに歯石の除去や歯の洗浄をしてもらいました。
私の中では普段こまめに歯磨きはしている方なのですが、それでも磨き足りない部分が残っているようだとの話。
「次週詰めた箇所の様子を見たいので、また来てもらえますか?」と歯医者さん。

会計時、「半年後くらいに歯の検診のご案内をするDMを送りますね」と言われ帰宅。
思えば歯医者に行く度に同じような話を言われ、必ず半年後くらいにDMが来るのですが、お恥ずかしながらわざわざ検診のためだけに歯医者に行ったためしがありません。
まあ、今じゃなくても、もう少し後でもいいかな…なんて思いながら、結局行かないわけです。

しかし、そうこうしていると数年に1回くらい、歯が痛くなったり、虫歯のような症状が現れます。
忙しい合間を縫って歯医者の予約をし、1カ月の間に何度も何度も通い続けるということがあります。

ふと思ったのですが、これは仕事にも同じことが言えるのではないでしょうか?

普段からちゃんとやっておけばいいものを放置したり、先延ばしにしたりすることで、何か問題が発生すると、その収束に余計に時間や手間を掛けてしまうケース。
そういう問題は必ずと言っていいほど突発的に発生するので、他の仕事にも影響が出てきます。

問題が解決すると、解決したことにホッとしてしまい、原因分析や再発防止策の検討をしない…。
検討をしたとしても、それをキチンと行動に移せないまま、放置をしてしまう…。
すると、忘れた頃にまた同じような問題が発生して、対処に追われてしまう。
こういったことの繰り返し、意外と多いのではないかと思います。

これは私の歯医者さんの話に例えると、歯が痛くなってから対処をしようとしているわけです。
虫歯を治すためだけに、足しげく歯医者に通い、時間とお金を消費していることと同じです。

しかし、定期的に歯のチェックをしていれば、虫歯の兆候も分かりますし、歯も綺麗になりますし、もし仮にそこで何かあっても初期段階で治療ができるので、時間もかからないでしょう。

虫歯になり慌てて歯医者に駆け込むのは、仕事に例えると「緊急かつ重要な仕事」です。
虫歯を放置すれば、さらに悪化するわけですから、一刻も早く治療を要する大事なことです。

これをみなさんの仕事に置き換えてみると、どんなものが挙げられるでしょうか?
例えば、納期ギリギリになって行う資料の作成、社内システムのトラブル、関係者の認識のズレから発生する諸問題、お客様からのお叱りのクレームなど、いろいろあります。
対応が済んで振り返ると、「あー、普段からこうしていれば…」と後悔するわけです。

では、定期的に歯医者さんで歯のチェックをしてもらうことはどうでしょう?
これは「緊急ではないが重要な仕事」と捉えられます。

いまこの瞬間、自分の歯に大きな問題は起こっていないので、緊急性はありません。
では何故、緊急性がないにも関わらず、それが「重要」になるのでしょうか?
それは、「緊急かつ重要な仕事」を発生させないようにするための仕事だからです。
先ほど事例で挙げた「緊急かつ重要な仕事」、みなさんも可能であれば避けたいと思いませんか?

では、こちらをみなさんの仕事に例えると、どんなものが当てはまるでしょうか?
社内外の人との人間関係の構築、定期的なシステムのメンテナンス、仕入れ先や取引先への監査、業務手順書やマニュアル類の修正、本を読んだり講演に参加したりする時間などがそれに当たるでしょう。
まさに何かあった時に、「あー、普段からこうしていれば…、あの時こうしていれば…」と思うことばかり。

ただ「緊急ではないが重要な仕事」をどんなにしっかりやっても、悲しいかな「緊急かつ重要な仕事」が発生することは避けて通れません。
しかし、間違いなく言えることは、その発生の「頻度」や「確率」を抑えることができるということ。

「緊急な仕事」は、どうしてもイライラしてしまうことも多分にあるでしょう。
当然精神的にもストレスが掛かるでしょうから、好ましいことではありません。

私たち一人一人にとっての「緊急ではないが重要な仕事」って何なんだろう?というものを洗い出し、それを毎日コツコツとやることで、よりパフォーマンスの高い仕事ができるのではないでしょうか。
「緊急ではないが重要な仕事」が、実は仕事の「本質」なのではないかなと思います。

私たちの会社も「本質」をものすごく大事にしています。
つまりそれは「緊急ではないが重要な仕事」にパワーを注ぐこと。
更にこれは仕事だけでなく、人生における時間の使い方でもまったく同じ。
その時間の割合を増やしていくことで、より豊かな人生を歩みたいですね。


2014年9月16日火曜日

Let It Go ~ありのままで~(後編)


先日、妻と一緒に映画「アナと雪の女王」日本語吹き替え版の映画を見てきました。
素晴らしい映像とディズニーらしいストーリーで只々感激でした。
この映画をもとに、前回に引き続き、「誠実」について考えてみたいと思います。

前回は「誠実」であるということは、「自分を必要以上に大きく見せない、見ない」、そして「自分を必要以上に小さく見せない、見ない」、つまり、「自分をありのまま受け入れる」ことだとお話ししました。
では「自分をありのまま受け入れる」にはどうすれば良いのでしょうか。

「ありのまま」というと、映画「アナと雪の女王」の挿入歌の「Let It Go ~ありのままで~」を思い出す方も多いのではないでしょうか。
雪の女王のエルサが、触れたものを氷に変えてしまうという自分の魔力が嫌になり、人を傷つけないために山奥の氷の城に閉じこもるシーンで、「Let It Go ~ありのままで~」(松たか子バージョン)が流れます。
エルサが変わっていく様子が印象的に表現されていました。 

曲名の「Let It Go」と「ありのままで」という言葉ですが、英語と日本語では意味合いが違うようです。

英語の「Let It Go」は、「嫌なことは放っておきなさいよ!」とか「そんなこと気にしないで」という意味合いのようです。
一方、日本語の「ありのままで」は、「偽りのない」や「そのままで」という意味合いなので、少しニュアンスが違いますね。
エルサが氷の城に閉じこもるシーンで流れる「Let It Go」は、英語の意味合いがフィットしていると思います。
「もう人を傷つける自分がイヤ!誰もいないところで気にしないで生きるの!」という感じでしょうか。

エルサが氷の城に閉じこもった後、いろいろな出来事が起こるのですが、自らの体を張った妹のアナの犠牲を代償として、エルサはやっと「ありのままの自分」を受け入れて、自分の城に戻ってきます。
また、妹のアナも、ありのままの自分の気持ちに気づき、本当の愛が何なのかを知ります。
最後はハッピーエンドでエンドロールに入り映画は終わりなのですが、この時に流れる「Let It Go ~ありのままで~」(May J.バージョン)は、日本語の意味合いが合っていると思います。
同じ曲でも、松たか子バージョンとMay J.バージョンは曲調も違いますよね。
これは日本語吹き替え版だけの話ではなく、英語版も当然ですが、すべての言語の吹き替え版で2パターンの曲が使われているそうです。
映画を面白くする効果的な演出なのでしょうね。

ところで、「自分をありのまま受け入れる」のはどうすればよいでしょう。

「アナと雪の女王」のエルサは、最初、自分の嫌なところから目を背き「Let It Go」と氷の城に閉じこもるのですが、いろいろな出来事を通して、犠牲は伴うけれど自分と向き合う恐怖を乗り越えて、「ありのままで」自分を受け入れることになりました。
この映画から教えられることは、「自分をありのまま受け入れる」には、嫌な自分にも目を背けず、勇気を持って、自分と正面から向き合う、つまり、自分を知ることから始めることではないかと思います。
自分を知ることは、決して「Let It Go:嫌なことは放っておきなさいよ!、そんなこと気にしないで」ではダメで、大変勇気がいることをエルサは教えてくれているように思います。

自分を知るには、いろいろな方法があると思います。
深く自問自答して「出来ること」「出来ないこと」「好きなこと」「嫌なこと」を考えてみる。
MBTIなど自己認知のツールを使ってみる。などなど、やり方はさまざまです。

他人からフィードバックを受けるのも有効な手段です。
人は自分自身のことがなかなかわからないと言われていますが、確かにその通りだと思います。
ですから、他人からのフィードバックは自分を知る上で大変有効なのだと思います。

しかし、時として他人からの自分を見る目や評価は、とても辛く苦しいことがあります。
自分を知る、ありのままに受け入れることは、同時に見たくない自分をさらけ出すことでもあり、大変に勇気が必要なことだと思います。
でも、一旦、ありのままの自分を受け入れてしまえば、「出来ること」と「出来ないこと」が判り、「出来ないこと」については、どうすれば出来るようになるのか、自らの成長の課題を発見できるチャンスにもなるのだと思います。
「誠実」であること「自分をありのまま受け入れる」ことは、勇気をもってチャレンジする価値のあることではないかと思います。


2014年9月12日金曜日

Let It Go ~ありのままで~(前編)


好きな言葉は何ですか?と聞かれると、私は「誠実」と答えています。
「誠実」という言葉を聞いて皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか?
「あなたはとても誠実な人だ」「何事に対しても誠実な対応ですね」と言われれば、とんでもない「ひねくれもの」を除けば、嬉しいですよね。
おそらく、総じてポジティブなイメージを持たれているのではないでしょうか。
辞書で意味を調べてみると、「誠実:私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま」とあります。
どうやら、「誠実」という言葉を成立させるためには、対象となる人や物事が必要なようです。

ところで「誠実」の対象を人とした場合、その人は自分以外の誰か、つまり他人なのでしょうか?

一般的には、自分以外の誰かを対象として「誠実」であるとするのが、イメージを作りやすく思います。 
「私は家族に対して誠実である」「私はお客様に誠実な対応をする」といった具合です。

では、自分に対して誠実であるということは、あり得るのでしょうか?また、それはどのようなことなのでしょうか。
「自分に誠実である」ということは、「自分に正直である」ということに近いような感じがしますが、少し違うような気もします。
そもそも自分に正直であったら、自分のやりたいことばかりになってしまい、私利私欲や我儘になってしまうことも考えられます。
その結果が、本当に自分自身を幸せにするかは分かりません。
誠実の対象の自分を不幸にしてしまう、つまりポジティブな状態にしないこともありえるとなると、これは誠実とは言えないのではないでしょうか。

それでは「自分に誠実である」というのはどのような状態なのでしょうか。
私は「自分に誠実である」というのは、「自分を必要以上に大きく見ない:過大評価しない」、そして「自分を必要以上に小さく見ない:過小評価しない」ということ、つまり、「自分をありのまま受け入れる」ことだと思います。
「見ない」を「見せない」に置き換えると「自分以外の他人に対しても誠実である」ということの意味にもなりますので、他人に対しても自分に対しても「誠実」であることと同じことであることだと思います。
つまり「自分をありのまま受け入れる」ことは、自分に対しても、他人に対しても「誠実」であることなのです。

人は人生の中で、成功や失敗を繰り返して得手不得手を知り、喜怒哀楽を感じて自分の嗜好に気付き、自己を形成していきます。
その過程で、多くの人との関わりあいを通して、承認をされることで、自分が何者なのかを確認し、自己を確立していくのだと思います。

しかし、他人からの期待に応えたい、逆に馬鹿にされたくないなど、必要以上の大きな承認を得たいとの欲求から自分を大きく見せたり、逆に自信がないところには関わりたくない、恥をかきたくない、という思いから、自分自身を小さく見せることがあります。

他人に自分を必要以上に大きく見せ、他人に過度な期待をかけ、結果が伴わなくて迷惑をかけたり、過度な期待に負けて自分が苦しくなってしまうことはないでしょうか。
あるいは自分を過小評価してしまい、新しいことに取り組むことを躊躇してしまい、せっかくのチャンスを逃してしまうことはないでしょうか。
または、本来は他人にきちんと対処することで解決する問題を、関わりたくない、難しいということで逃げてしまい、他人に対して迷惑をかけることはないでしょうか。
これはとても「不誠実」なことに思えます。

それでは、「誠実」であるために「自分をありのまま受け入れる」にはどうすれば良いのでしょうか。
これは、自分自身のことなので一見簡単なことのように思えます。しかし自らを振り返ってみたときにどうでしょうか?
意外と難しく、乗り越えるハードルが高いように感じます。

ところで「ありのまま」と言えば、最近、大ヒットした映画「アナと雪の女王」の挿入歌「Let It Go ~ありのままで~」を思い浮かべます。
皆さんは、あの映画をご覧になりましたか?
「Let It Go ~ありのままで~」は、映画の中で流れる「松たか子バージョン」とエンドロールで流れる「May J.バージョン」があるのを皆さんご存知ですよね。
皆さんはどちらのバージョンがお好きですか?

実は、主人公の一人、雪の女王エルサが、「ありのまま」の自分を受け入れるヒントを映画の中で与えてくれています。
また、そこに2つの「Let It Go ~ありのままで~」が効果的に使われているのです。
次回は、「アナと雪の女王」を題材に「ありのままで」自分を受け入れることについて考えてみたいと思います。



2014年8月21日木曜日

流される、流れてみる


3か月前に手術をした私の膝は、あまり芳しくなく、歩行中に痛みがあり、少し長い距離を歩くには杖が必要です。
痛みに耐えながら杖に頼った歩行を続け、リハビリで回復のチャンスを待つか、思い切って人工関節に代えるかのようですが、人工関節の場合、手術も大掛かりになり、膝間接が直角からそれ以上鋭角に曲がらないという後遺症を抱えてしまうようです。
特に膝を酷使したつもりはなかったのですが、加齢による衰えから遅かれ早かれ、降りかかる現実だったのかもしれません。

と、結構残念な状況なのですが、私自身はあまり落ち込んでいる訳ではありません。
もちろん、膝の痛みは辛くて嫌ですし、杖の歩行は不自由で面倒です。
一時期、なんでこんな目に合うんだと思ったこともあります。
しかし、杖を突いて歩いていると、結構面白いことに出会ったり、新たな発見があります。
杖を突いて満員電車に乗っていると、たまに席を譲ってもらうことがあります。長距離通勤の私にとっては大変ありがたい話です。
久々に知人に会ったときは、たいてい驚いて様子を聞いてくれますが、膝の話題でだいたい10分は話が盛り上がります。
また、初対面の人にお会いすると、何となく怪しげな雰囲気があるようで、そこで立場的に有利?に立っているような気がします。(気のせいだと思いますが)
駅の階段の上り下りや歩道の状態から、身障者の方は大変だな、と気付いたり、調べてみると私のように膝を痛めている人が老若男女問わず多く、何かビジネスチャンスがあるのではないかと思いを巡らせたりします。
これは、私のやせ我慢のように聞こえるかもしれません。事実そうかもしれませんが、これも考え方なのかな、と思います。

改めて言うまでもありませんが、人生、いろいろな事が起こります。
自分にとって、幸運が起こったり不幸が起こったり、幸運だと思ったら不幸だったり、その逆だったり、自分の思うとおりにコトが進む方が珍しいかもしれません。

突然病気になったり、事故に巻き込まれて怪我をしたり、身体的な問題だけではなく、環境の変化で自分の仕事が変わったり、無くなったり、自分の思い描くキャリアでない方向に進みだしたり、あまり考えたくないようなことが起こるかもしれません。
そんなとき、現実にあらがって、何とか流れを変えようとすることもできるかもしれませんが、変えることができることと、できないことがあるように思えます。

こんな時、皆さんならばどうするでしょうか?
諦めて運命に任せて流されるのか、無理だと思っても流れに逆らって何とかしようともがくのか…。

私は「流される」のではなく「流れてみよう」と考えています。
「流される」のと「流れてみる」は、似たような状態かもしれませんが、随分と意味合いが異なります。
「流れてみる」には自分の意志・覚悟が必要だからです。

運命の濁流にただ「流される」だけだと、途中、渦巻きに巻き込まれたり、大きな岩にぶつかって、おぼれてしまうかもしれません。
「流れてみる」は自分の意志で流れているので、渦巻きや大きな岩も冷静に見えて、避けることができるかもしれませんし、時には流れながら周りの景色を眺めたり、新たな発見をすることで、流れることを楽しむことができるかもしれません。
流れている間に、流れが穏やかに変わるか、都合の良い方向に流れだしたら、そこで大きく自分の思った方向に泳ぎだしてみればよいと思います。
もちろん、「流れてみる」のも、流れに乗るためには、一生懸命頑張って泳ぐ(全力を尽くす)必要があると思います。
そうしないと「流れてみる」から「流される」状態になってしまうからです。

「流れてみる」ためにはどうすればよいのでしょうか。
私は、まずは受け入れてみることが大事なのだと考えています。受け入れてみれば状況を冷静に判断でき、流れ方もある程度見えてくると思います。
そうすれば「流れてみる」意志・覚悟も固まってくるのではないでしょうか。
「流れてみる」意志・覚悟ができれば、あとは全力を尽くして流れに乗ってみるだけでしょう。

怪我や病気のように突発的な出来事は、今すぐにでも起こるかもしれません。
また世の中の動きや自分を取り巻く環境は、時には自分の想像を超えて、大きく速く変化していることがあります。
好むと好まざるとにかかわらず 、運命の濁流は私たちに襲い掛かってくるのでしょう。
運命の濁流に対しては、「流される」よりは「流れてみる」方が楽しく思いますが、如何でしょうか?


2014年8月8日金曜日

ちりも積もれば152日


みなさんは一日の中でどれくらい「探し物」をしているでしょうか。
ちょっとイメージをしてみて下さい。

いかがでしょうか?
例えば、朝起きてから家を出るまでの間、家の鍵や携帯電話、財布などを探すことがあるでしょう。

会社に来れば、探し物はもっと増えていきます。
「あの時作ったパワーポイントの提案資料の最新版はどれだっけ?」
「会議の資料、サーバのどこに保管してあったっけ?」
「○○の案件に関するクライアントさんからのメールはどこ行ったっけ?」
「この間もらった紙ベースの資料、キャビネットのどこに閉まったっけ?」
みなさんもこのようなシーン、毎日何度も経験しているのではないでしょうか?

我が家でも、テレビのリモコンや携帯電話の充電器が見当たらなくなることがしばしばあります。
部屋のどこかにあるのは分かっているのですが、「どこいった?」と大騒ぎに…。
お恥ずかしい話、つい先日、ショッピングモールに停めた自分の車の駐車場所を見失い、探したこともありました。

こうして見てみると、私たちの生活の中で「探す」というシーンは、たくさんあることが分かります。
では人は一日にどのくらい「探す」ことをしていると思いますか?

諸説ありますが、平均するとおおよそ一日当たり約10分を「探す時間」に費やしているそうです。
一日の中における10分…。これだけ見ればそんなに大した時間ではないと思うかも知れません。

ではこれを1ヶ月繰り返すとどうなるでしょう?
実は10分×30日=300分(5時間)になります。
本が数冊読めるような時間でしょうか。

次に1年365日で考えるとどうなるでしょう?
10分×365日=3,650分、時間に直すと約61時間、約2.5日分に相当します。

日本人の平均寿命を仮に80歳としてみましょう。
(つい先日、日本の男性の平均寿命も80歳を超えたそうです!)
成人になって以降、80歳までの約60年間に換算してみると…?
10分×365日×60年=219,000分、時間に直すと約3,650時間、約152日分になります。
152日あったら、ちょっとした資格が取れるかも知れません。

あくまでこれは「論理上」の話ではありますが、大事なことは、私たちは人生の中で152日間分の大変貴重な時間を「探す時間」に費やしているという「事実」です。

いかがでしょうか?

この探す時間、可能であれば減らしたい、なくしたい時間ですよね?

自分の部屋、会社のデスクやキャビネットなどの整理整頓が苦手な方、例えば、ありとあらゆる資料が山積みになったデスクで仕事をしている方、パソコンのデスクトップ画面いっぱいにファイルやフォルダが散在している方などは、一日の中で探す時間は10分よりも全然多いかも知れません。
そうなると当然「探す時間」は152日を遥かに超える時間になります。

結果、探し物が見つかるのであればまだしも、結果的に見つからなかったとすると、本当に何も生み出さず、ただ時間を失っただけという顛末になります。

では何をすべきか?
自分の机の周りの整理整頓をする、いらないものはドンドン捨てる(いわゆる断捨離)、自分の中で置き場所のルールを決める、メールや資料のタイトルにルールを付けるなど、ちょっとした「分かりやすい」工夫をすることで、探し物で失ってしまう時間を自分の時間にあてがうことができるようになります。
そこには新しい視点やアイデアが沸きだし、結果として「効率化」にも繋がります。

もちろん、整理整頓をしたからといって、152日分のまとまった時間を確保できるわけではありませんが、ちょっとした時間を別の時間に費やすことができたり、探す時の「イライラ」自体をなくしたり、私たちにとってはプラスになることの方が多いのではないでしょうか。

「ちりも積もれば山となる」とは、まさにこういうことですね。
整理整頓、ちょっと面倒だなあと思われるかも知れませんが、是非機会を見つけてやってみてください。

2014年7月31日木曜日

自分らしく輝く


先日、息子を将棋教室の体験に連れていきました。
将棋が大好きな息子、既にお友達も二人通っていたので更にウキウキ、大きな期待を胸に体験がスタートしました。

そこの将棋教室では、様々なルールがあります。
●将棋中はもちろん正座。どうしても痛くなった場合はあぐらならOK。
●始める時には必ず相手の顔を見て「よろしくお願いします」。
●負けた人が「負けました」と言い、勝った人は「ありがとうございました」と言う。
息子は時々ルールを守れず注意されながらも、将棋を楽しみ、最初のうちは運よく連勝!
嬉しかったのか先生に向かって、「負けたことない」とぼそっと言うと、先生は「そういう時もあるね」。
すると次の2回連続で負けてシュン・・・。
先生に「勝つこともあれば負けることもある。そういうものだよね」と教えてもらいました。

そんなこんなであっという間に一時間以上が経過し、将棋教室終了。
最後にお友達と3人集められて先生からのお話。
先生「将棋楽しかったですか?」
息子「うん・・・。」
先生「今日も色々あったと思うけど、ここの将棋教室にはたくさんのルールがあります。それを守れそうですか?また来たいですか?」
息子「・・・うん。」
先生「3人で将棋をするときは●●くん(一番長く将棋教室に通っている子)がいつも勝つのかな?」
子供たち3人「・・・うん。」
先生「そっか。でもみんなきっとすぐ●●くんくらい強くなれると思うよ」
こうやって将棋教室が終わりました。

教室を出て息子の顔をのぞくと曇っている・・・そして動かない。
私が「行こうよ!」というと、息子は「ママ嫌い!」と言って抵抗しました。

息子の口から直接その理由は聞かなくても、母はわかりました。
①みんなの前でルールを守れないことを注意されたようで嫌だった。
②自分だって●●くんに勝ったことがあるのに、●●くんが一番強いと言われ悔しかった。
③母にこの気持ちをわかって欲しいのに、わかっていなそうだ!
子供なりのプライドと理解してもらいたい気持ちから、なのだと思います。

私自身もこのような気持ちは経験したことがありますし、今でもたまにあります。
「負けたくない!」「理解してもらえていない!理解してほしい」という気持ち。

みなさんも、少なからずこのような気持ちを経験したこと、ありますよね?
大人になっても人に注意されてプライドが傷つくことはあると思います。
しかしこのプライドや感情的な要素をうまく消化できない場合、マイナスになるケースも多くあります。
息子のように、人に抵抗したり、駄々をこねたり。
現実を受け入れることができなかったり。
そこですねてしまって、壁を作ったり、頑張ることをやめる人もいる。
逆に、プライドが高くて人の意見を聞き入れなかったり、負けたくないと相手を攻撃してしまったり。
書いてしまうと「子供」という感じですが、日常を見てみると、実はこのようなことは大人になっても、身近なところで日々起こっているように思います。

でも実際に損をしているのは自分です。
こういう気持ちの対処方法を理解し、それをばねに成長できるかどうかが大事なのだと思います。

ではどうすればいいか。

一つは、自分が『井の中の蛙であることを知る』ことだと思います。
私は年を重ねるごとに「世の中にはすごい人たちがたくさんいる」ことを実感する日々です。
そして「自分の知らない世界がたくさんある」、「自分の見ている世界は世の中のほんの一部でしかない」ということがベースにあると、他者からの言葉を素直に受け止めることが出来ます。

息子に先生が教えてくれた通り、「負けることもある」=「うまくいかないことがあって当然なんだ」ということを知る。
息子には将棋の先生の言葉を素直に受け止め、上には上がいることを知って欲しいと思っています。

そして、それを理解した上で、「もっと強くなりたい」と思い、努力してほしい。
それが二つ目に大切なこと、『プライドに見合うよう、自分を高めること』だと思います。
自分も努力すれば少しずつ成長していくという、実感を持つことが大事だと思います。

自分を高め、人を敬う。
自尊心と謙虚さのバランスが、自分らしく輝くコツなのではないでしょうか。

そして最後に、見守るものとしては、「気持ちを理解していることを伝える」ということが大事ですよね。
人は「理解されている」、「認めてもらっている」と思うと心が穏やかになります。
それは彼を育てる私の役割です。

大好きな将棋を通して、勝った時の自信や喜びを感じるのと同様に、努力することの大切さを知り、強い人がたくさんいる世界の広さを知ってほしい。
そして、勝つことだけではなく、それに至るまでの道のり自体が楽しいことに気づいたり、気持ちを理解してくれる母に安心感を覚えてもらったり、私たち親子の色んな成長の糧になっていけば、と願っています。


2014年7月18日金曜日

Time is Life


7月に入り、2014年ももう半分が過ぎました。
半年前はまだ幼稚園の年長だった娘も、小学校に入学し、今日で1学期が終了。
日々、またたく間に時間が過ぎていってしまっているなあと感じます。

私も大学生の頃と何ら変わらず、心も体も若いつもりでいますが、年齢だけを見れば今年で40歳。
正直受け入れ難いことですが、歳をとるという現実だけは避けて通ることはできません。

しかし、時間が過ぎるのが早いというこの感覚、昔から私の中にあったのかなと思うと、実はそうではない感じがします。

今振り返れば、子供の頃は1年があっという間に過ぎてしまうなあと感じた記憶はありません。
(そもそもで時間という概念を今ほど意識していなかったというのもありますが。)
とはいえ、1日24時間、1年365日という時間そのものは誰でも平等に与えられているもの。
では、何故私たちは歳を重ねるにつれて、時間の経過を早いなあと感じるようになるのでしょうか?

実はこの「時間感覚」については、面白い法則があるんです。

皆さんは「ジャネーの法則」というものをご存知でしょうか。
フランスの哲学科であるポール・ジャネが19世紀に発案した法則です。

時間を科学的に見ると、大人でも子供でも過ごす1年そのものに長いも短いもありません。
しかし心理的に見ると、時間感覚はその人の年齢に「反比例」するそうです。

例えば50歳の人にとっての1年というのは「生涯の50分の1(2%)」ですが、5歳の子供にとっての1年は「生涯の5分の1(20%)」ということになります。
つまり、50歳の大人にとっての10年間と5歳の子供にとっての1年間が、心理学的には同じ感覚になるいうことです。(生涯の20%)

あくまでも心理的にどう捉えるかの話ではあるものの、生涯の中に占める1年間の「割合」の大きさを無意識の中に感じ、大人である私たちは1年を「短い」と捉えてしまうのでしょう。

であるからこそ、私たちは1日1日のこの瞬間瞬間を、大事に過ごさないといけないんだなあと思います。

1日の仕事を効率的に進めながらも、高いパフォーマンスを発揮し、仕事を離れたシーンでも充実した生活を送る、まさにワークライフバランスを「高いレベルで保つ」ということ。

気が付けば今年も半年が過ぎています。
この1年だけを見ても前半よりも後半の方が早く感じるのも、このジャネーの法則によるものなのかも知れません。

自分自身を振り返った時に、後悔をしないようにするためにも、大事なことに集中し、大事なことに時間を割ける人生を歩んでいきたいですね。
ただ、そもそもでそういう人生を歩みたいかどうかを決めるのも自分自身。
まさに「Time is Life」ですね。


2014年7月10日木曜日

自分の人生の主役になる


7月1日、弊社の4周年を迎えた日、4月に入社した新入社員3人も無事本採用となりました。
そしてこのタイミングで、一人一人に名刺が提供されました。
社会人として初めての名刺に、それぞれ感慨深い思いがあったようです。
確かに私も社会人になって名刺を初めてもらった時、一人前になったんだなという気持ちで嬉しかったことを思い出します。

私が社会人3年目くらいの頃、当時の上司にこんな話をしてもらったことがあります。
名刺の社名のロゴの部分を切ってなくしたとしても、自分の名前で信頼してもらえる人にならねばならない、と。
当時は、その会社の一員として恥じないように働くことの価値を感じていたし、若い担当者が信頼してもらうためには会社の名前が必要だとも思っていたので、あまりぴんとこないところもありました。
確かに若い時はついていくのに必死ですから、そう思っても当然だったと思います。
でも今となっては、その言葉の意味に深く頷くことができます。

会社の名前だけではなく、何かしらの権威に依存しないということは、人が生きていく上でとても大切なことだと思います。

それは何でも自力でやる、ということではなく、自分が主役として生きるということです。
もし自分がこの会社の人間でなければ仕事ができないとしたら、そんなに悲しいことはありません。
逆に他の人ではない自分がいるからこそ、この成果を生み出せたのだと思うと、自分がそこに価値を生み出せている喜びでいっぱいになると思います。

ただ間違えたくないのは、それは自己責任ということとは違うということです。
昨今のニュースを見ていても、自己責任という名のもとに、他者を批判し、逆に当人が責任を一人で背負いこみ、結局みんなが窮屈になって生きにくくなっていること、今の時代にはよくあると思います。

でも自分を律して、自分で考えて動くということはそういうことではなく、自分が主役となって知恵を振り絞り、他者に手を差し伸べ、時に手を貸してもらい、目の前の問題を解決していくことだと思います。

そしてそのプロセスを楽しみ、人生を楽しむということ、それこそが、自分の人生を生きることに他なりません。

それはどんな会社にいても、どんな社会にいても、自分の意思と仲間さえいれば、達成できることなのです。

「仕事は人についてくる」、といつも思います。
どんな些細なことであれ、真剣に目の前のことを、一つ一つ頑張ってクリアしていくことで、いつの間にか自分自身が成長し、仲間が増え、また次の何かをより高いレベルで遂行することができる。
新人たちも、自分が主役となりながら仲間と一緒に、「日々の一生懸命」を楽しんでいられる社会人であってほしいと、心から願っています。


2014年7月3日木曜日

心の存在に気づく


皆さんは最近「イライラ」すること、ありますか?

私は、「あまりありません」と言いたいところですが、残念なことに現在「よくあります」!

でも最近の「イライラ」は昔と比べて、時間が短くなりました。
それは、
○イライラしても意味がない。
○イライラして一番損をするのは自分。
○イライラすると周りにも悪影響。
ということがわかってきたからだと思います。

とはいえ、「イライラ」すること自体がとても嫌なので、どうにかこの「イライラ」をなくせないかと考える日々です。

先日、子供教育に関するセミナーに行く機会があり、そこで「感情のコントロール」について話を聞きました。

そのセミナーでは、
○適切な叱り方ができるようになるためには、叱る大人自身が、自分の感情をコントロールできることが大切である。
○ここで言う感情のコントロールとは、「イライラする」「嫌だ」「頭にくる」という感情を持つな!ということではなく、その感情は人間であれば当然のこととして受け止めればよい。その感情が湧きあがってきた時に、自分自身で「怒っている」と気づくことが第一歩である。

このようなことが言われていました。

そして、その中で「最近、どんな時にイライラしたか、書き出してみましょう」というワークがありました。
現在の私で言うと(ほとんどが家庭での問題のため家庭のみ記述)、
1、子供がいつまでたっても寝ない。
2、子供が出掛ける時間になっても準備ができていない。また、学校に忘れ物ばかりする。
3、子供同士でけんかする。
4、バタバタしている中、夫はマイペース。
・・・・
ここまで書いただけでも、自分自身で反省するのですが・・・。

ここから「自分がイライラするポイント」を知ることができるな、と気づきました。

1、子供に規則正しい生活を送らせたい、のにできていない。
2、子供に自分自身で時間管理をしてしっかりして自立してほしい、のにできていない。
3、子供に仲良し兄弟でいてもらいたい、のにけんかする。
4、夫にも協力してほしい。理解してもらいたい、のに手伝ってくれない。
つまり私の場合、結局すべてが、自分が「こうありたい」という姿とのギャップから生まれるものだったのです。
これらすべて、自分自身の希望であるだけで、子供や夫にとっては関係のないことです。
関係がない子どもや夫からしたら、私が「イライラ」していることが嫌な気持ちですよね。
書いてみるとイライラしている理由は、「イライラしてもしょうがないこと」「求めすぎていること」だと気がつきます。

では、本質的に解決するにはどうすればいいのでしょうか。
例えば、
1、余裕をもった生活を送れるよう家族全体のスケジュールを調整する。
2、子供が自立できるようにサポートする(そもそも、まだまだ子供なのだから期待しすぎない)。
3、兄弟げんかは仕方がないので、ある程度見守る。
4、夫に相談する。
そもそも求めることを見直す必要がありそうです。
また、以前コラムでとりあげた役割について考えてみる(ライフキャリアレインボー)も参考にできそうです。

今回、私の家庭の問題を大きく取り上げてしまいましたが、どんな「イライラ」でも同じことが言えますよね。
○部下に指示をしているのになかなか伝わらない。そもそも理解する気があるのか?
○満員電車で大きな音で音楽を聴いている人が迷惑だ。
○応援しているスポーツチームが負けてしまった。

自分ではどうにもできないことも生きていればたくさんあると思いますが、自分の心の存在に気が付けば、案外「イライラ」を解消することは難しくなさそうです。

周りも、そして自分自身も、気持ちよく過ごせるようになりたいですね!
私も子供に(いい意味で)期待せず、楽しみながら一緒に成長していきたいと思います。


2014年6月17日火曜日

カロリーと知識の関係


昨年の秋から痛めていた膝を手術で治療しました。
今回の手術は根本的な治療と言うよりも対処療法なので、また膝を痛めることが考えられます。

膝の負担を減らすために、まずは、少し増えてしまった体重を減らす必要があります。
体重を減らすには、1)摂取するカロリーを減らす、2)消費するカロリーを増やす、のどちらか、または両方を行う必要がありますが、膝を痛めている私としては、2)の選択肢を取るのが難しく、まずは摂取カロリーを如何に減らすかが問題となります。

当然ですが、「摂取カロリー」<「消費カロリー」にすれば自ずと体重は減っていきます。
皆さんもご存じだと思いますが、人間には基礎代謝、つまり何もしなくても生きていくだけで消費されるカロリーがあります。
私の年齢と体重、身長から割り出される基礎代謝の消費カロリーは約1600Kcalです。
運動できず、通勤と仕事が大きな消費カロリーの元になる今の私としては、おそらく2000Kcalを下回る摂取カロリーにしないとダイエットは成功しません。
当面、日々の摂取カロリーを気にする毎日です。

さて、カロリーを気にしていたら、最近あることに気付きました。
それは、「カロリー・運動」と「知識・行動」の関係です。

体に摂取されたカロリーは、基礎代謝として生きるための最低限のエネルギーとして消費され、さらに運動を通して健全な肉体(例えば強靭な筋肉)を創り上げる糧として消費されます。 
適度な運動が伴わないと、過剰のカロリーは脂肪として体内に蓄積され、時としては肥満や糖尿病などの、健康を害する原因のひとつになってしまいます。

もしかしたら、我々が外から得る知識にも、似たようなところがあるのかもしれません。
人は生きるために、必要な知識を吸収する必要があります。
それは刻一刻と変化する周囲の状況に、自分を適応するための知識ではないかと思います。
例えば、この4月にあった増税のように社会のルールが変わったときに身に付ける知識であったり、会社に新しいコピー機が導入されたときに使いこなすための知識だったりするかもしれません。
最低限社会生活が送れる知識、おそらくカロリー消費であれば基礎代謝に相当する知識なのでしょう。
しかし、それでは「生きている」だけであって、成長していることにはならないと思います。
成長のために必要な知識を積極的に獲得する必要があるのでしょう。

ただ、摂取カロリーと運動の関係のように、獲得した知識は、それを試したり、行動に反映しない限り、成長の糧にはならないのではないかと思います。
せっかく獲得した知識も、使わずに単に貯めておくだけであれば、単なる物知りで終わってしまい、カロリー過多での不要な脂肪のような存在になってしまうかもしれません。
ちょうど不要な脂肪が健康を害するように、場合によって使わない知識は、その人を単に知識を持った行動の伴わない批評家にしてしまい、成長を阻害する原因になるかもしれません。

「知っていること」と「実行すること」は根本的に違います。
自らの成長のためにも(知識太りしないためにも)、獲得した新しい知識や知見は、いろいろな場面で試し、行動に反映していきたいものです。


2014年6月11日水曜日

時にはアナログに


インターネットや携帯電話が世の中に普及して約20年が経過。
私たちの生活スタイルや仕事の仕方も大きく変わり、便利な世の中になりました。

そのような環境の中、皆さんも次のようなことを、一度は経験したことがあるのではないでしょうか。

・携帯やスマホを忘れて家を出ると落ち着かなくなる。
・電池(バッテリー)が少なくなってくると不安になる。
・ネットが繋がらない環境に行くとそこはかとない疎外感を感じる。

これらのことは、私たちにとってインターネットが身近な存在であるが故に感じる経験です。
そして、良くも悪くも気づかずに、インターネットやパソコン中心の生活になっていることの現れです。

・分からないことがあってもインターネットで検索をすればすぐに答えが出てくる。
・他者とのコミュニケーションの手段がメールやSNSになってきている。
・文字を「書く」という行為から、文字を「打つ」という行為にシフトしてきている。
・文字を打てば、漢字変換が容易に出来たり、次に打とうとする文字が予測変換される。
・電車に乗っている時や歩いている時にも、携帯やスマホの画面に向き合っている。

これら一つ一つは本当に素晴らしい機能ですが、その「付き合い方」について考えさせられることがあります。

自分で考えてアウトプットすることを、外部(インターネットやパソコン)に依存しすぎると、そもそもで自分自身が考えなくなってしまう、もしくは考える力が弱まってしまうのではないかと思うからです。

例えばそれが仕事に現れると、自分から動かずに、ひたすら指示待ちの状態になってしまったり、自分の意見や考えを持たないまま「どうしたらいいでしょうか?」と相手に判断を委ねてしまったり、指示を受けても、具体的な進め方までキチンと説明をしてもらわないと動くことができなかったり、といったことが起きます。

つまり「自ら考えること」を放棄してしまい、全てを相手に依存してしまうという状況になってしまいます。
また、これらの反応が、無意識の中で起きてしまっているという部分も、非常に怖いものがあります。

そうならないようにするためにも、日々「自分の頭で考える」という「クセ」を付けることが大切。
その方法はいろいろあるかとは思いますが、例えばたまには「アナログ的」な生活をしてみることも一つかなと思います。

・携帯を持たずに街に出て見たり、友人と待ち合わせをしたりしてみる。
・インターネットを使わないで何かを調べてみる。
・普段メールやSNSでしかやり取りしていない人と、直接の対話をする機会を増やしてみる。
・メモをとってみる、手書きで文章を書いてみる。
・電車に乗って外を眺めてみたり、周囲の景色を見ながら歩いてみる。

そんなことを敢えてやってみると、実はものすごく頭を使ったり、深く考えたり、普段では気づかないような新たなことに、気づいたりすることも多いのではないでしょうか。

最近、子供をキャンプに連れて行く親が増えていると聞きます。
これは親が子供に、『考える力』を身に着けさせたいと思っている証拠かもしれませんね。
斧で薪を割り、火おこしをして、飯ごうでお米を炊いてカレーを作る、そして自分たちでテントを張って寝袋に入って寝る…。

こういう経験を通じて、子供たちも自然の雄大さや、エネルギーや資源の大事さ、チームワークなどに気づき、自分たちが普段どれだけ恵まれた環境で過ごしているかを感じられると思います。

最近、私も時々ではありますが、意識的に「アナログ人間」になるように心がけています。
インターネットを一日やらないで過ごす日をつくってみたり、休日などでの外出時にスマホを持たないで出掛けてみたり。

確かに不便だなあと感じることもありますが、その一方で何か新鮮な気持ちになったり、情報を集めるために色々と考えたり、試行錯誤している自分がいることに気付きます。
思えば20年位前はそれが当たり前だったのですが(笑)
過去のある瞬間からそうなったのではなく、いつの間にかそうなっていくのですね…怖いです。

いわゆる「アナログ」と「デジタル」の良さをそれぞれ理解し、活用していくことの大切さは、私たちの会社の行動指針にもある「品質」と「効率」、「情熱」と「論理」の両立にも繋がる部分があります。

時には敢えて「アナログ」に過ごすことで、「考えること」の価値を感じるのも大切なことではないでしょうか。

2014年5月29日木曜日

想いをつなげる


いよいよ来月、ブラジルでワールドカップが開幕します。
ザックJAPAN、そして世界の各国の活躍が楽しみですね。

ほぼ手が届きかかっていたアメリカワールドカップの切符を、ロスタイムで逃した、あの「ドーハの悲劇」から20年。
月日が経つのをとても早く感じます。

1993年のJリーグ創設を皮切りに、日本のサッカーのレベルも飛躍的に発展を遂げました。
そして、ヨーロッパの強豪チームで活躍する日本人選手を、どんどん輩出するようになりました。
日本代表チームも、それに合わせるかのように日々進化を遂げてきています。

これは、選手個人の技術やチームの戦術レベルが向上したのはもちろんのこと、協会や地元、そしてサポーターが一緒になって日本のサッカーを盛り上げてきた賜物です。

更に、そのプロセスで過去の先人が経験して感じた「想い」が、「文化」としてキチンと次の世代に伝承されているからではないかと考えています。

ドーハの悲劇での悔しさや、その悔しさをバネに初出場を決めた時の感動。
地元での開催で多くのサポーターに囲まれて試合をする喜び。
ボロボロの前評判を覆して、決勝トーナメントまで勝ち進んだ時の興奮。
代表に選ばれた選手の喜びや、選ばれなかった選手の悔しさ…。

一人一人の「想い」が、経験者の言葉として多くの人に伝えられ、今の日本サッカーがあるのではないかと思います。

ドーハの悲劇を経験していない人は、全く同じ経験が出来ません。
ドーハの悲劇を経験しろと言われても、経験することは出来ません。

しかし、経験者はそこで感じたことを伝えることが出来ます。
経験者が当時何を考え、感じ、どういう言葉や態度を発したのかは、伝えられます。

それは企業経営や組織においても一緒。
例えば井深大さんや松下幸之助さん、本田宗一郎さんなどの、「創業者」が事業を立ち上げた時と全く同じ経験を、今の社員が経験することは残念ながら出来ません。

しかし、事業立ち上げのプロセスの中で、当時の創業者がどういうことを感じ、何を考え、最終的に何を学び、何に気づいたのかということは、次の世代へと語り継いでいくことが出来ます。

例えば、トランジスタラジオや電球ソケット、二輪車の開発を夢中になって取り組む中で、これができれば世の中が大きく変わると感じていたであろう「ワクワク感」であったり、なかなか上手く形にならない中でも「あきらめずにやり続けることの大切さ」であったり、こういった大切な気持ちや想いは伝えることが出来ます。

社員もそれを肌で感じ取り、日々の仕事にその当時の「想い」を込めることが出来ます。
まさにこれが経営理念や行動指針、社員一人一人の根幹にあるスピリットや企業文化。

先人の「想い」を引き継いだ今の世代、次の世代の社員は、企業文化を継承しながらも、激変する環境に上手に「適応」しながら、新しいチャレンジをし、発展していくのだと思います。

私たちの会社では、クライアント企業の経営理念をしっかりと理解し、サポートしていくことを大切にしています。
その企業だからこその強み、そして時代を理解した上でのチャレンジ、不易流行を大切に、これからも邁進していきたいと思います。


2014年5月19日月曜日

昨日の自分を超える



私事ですが、この4月に娘が小学校に入学しました。
入学して約1ヶ月が経ち、お友達ができたり、勉強が始まったりと、新しい環境での生活にもようやく慣れてきたようです。

おそらく日々目の当たりにすること、感じること、全てが新しい経験で、その繰り返しを通じて毎日成長をしているんだろうなあと感じます。
きっと成長の「角度」も大きく、これからもどんどんと成長していくことと思います。

私たちの会社に入った新入社員も入社して1ヶ月が経過。
入社当時はまだまだ固い表情が拭えなかった新入社員も、社内の環境や仕事にも慣れ、毎日確実に成長をしています。    
    
仕事を通じて新しい気づきや学びを繰り返し、成功や失敗を重ねながらも、昨日より今日の自分、今日より明日の自分が成長していく、新入社員にとってはまさに毎日が成長の連続なんだと思います。

そういった様子を見るにつれ、日々自問自答することがあります。

それは「今日の自分は昨日の自分より成長できたのか?」ということ。
社会に出るとどうしてもそういう部分が忘れがちになってしまいます。

悪い意味で仕事や環境に慣れてしまうと、更なるチャレンジや改善に繋がる取り組みをしなくなってしまいがち。

例えば、今日の自分は昨日の自分よりも…
・より良いアイデアや意見を生み出すことが出来たのか?
・部下や仲間の成長に繋がるマネジメント、支援ができたのか?
・成果に直接的に繋がる仕事ができたのか?
・大事なことからぶれずに、妥協なく仕事ができているか?
・より高い目標を掲げて取り組んでいるのか?

常に成長している人を目にすることで、自分自身も成長意欲を高め、娘や新入社員以上に成長している姿を見せることが必要だと感じています。

その為にも、まずは一人一人が「自分が成長しているか」に向き合うことからはじめ、またそれだけではなく自分が本当に成長しているのかを、他人からも客観的にフィードバックをしてもらうようになれば、更に効果が高まります。

お互いがお互いの成長に向けて関与し、つながりを深める、更にそのプロセスの中で、社員同士が「きょうそう」する。
つまり、共に同じ目標に向かって(共走)、互いに切磋琢磨し(競争)、一緒になって何かを創り上げていく(共創)
その結果、日々活性化され、昨日よりも今日、今日よりも明日の方が、個人も組織も成長を遂げている。
それが当たり前な組織でありたいと思います。

2014年4月18日金曜日

飲みニケーションとソーシャルキャピタル



4月から新生活が始まり、各所でお花見や歓迎会が開催されるシーズンになりました。
私たちの会社でも、年に4回、公式のレクリエーションを実施しています。

春はお花見
夏はビアガーデン
秋は社員旅行
冬は忘年会

と、季節を楽しみながら、部門を超えた交流をすることを大事にしています。

しかし一方で、宴会の席で親睦を深める「飲みニケーション」は、やや古い印象を持たれている方も多いのではないかと思います。
飲んで上司と部下の関係を縮めるという方法は、若者からだけでもなく、上に立つ立場からしても、必ずしも積極的にやりたいものではないかもしれません。

しかし、本当にそう決めつけてもいいものなのでしょうか?

私たちの会社の名前にもあり、日頃大切にしている言葉の中に「ソーシャルキャピタル」(=社会関係資本)というものがあります。
厚生労働省の定義ではこれを、

“人々の協調行動を活発にすることによって、社会の効率性を高めることのできる「信頼」「規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴”

と説明しています。
つまり人と人がつながり、信頼しあい、規範を守ることが、社会の効率性や成果に結びつくというものです。

この言葉は「ヒューマンキャピタル」(=人的資本)とは分けて考えられます。
個人の力を伸ばし発揮することが、会社のような組織にとっては大切なものとしつつも、その人たちが関係しあうことこそが、さらなる力を発揮するということです。

会社ではそれぞれのチーム、個人での役割をもって、日々一生懸命働いています。
しかし、例えばこのようなインフォーマルな交流を通して、普段会話をしない人たちが話をし、お互いを分かり合うことによって、フォーマルな場でも新しいアイデアを生み出したり、困った時に助け合ったりすることができる経験、ありませんか。

飲みすぎには注意ですが、「飲みニケーション」もあながち悪くないものではないでしょうか?

つながりを生み出す大切さを、このような場所を通して感じながら、それぞれの仕事にも生かしていきたいと思います。


2014年4月11日金曜日

時速300㎞で動く組織


最近、新卒採用の仕事で新幹線で東京と大阪を行き来する日々。
ふと振り返ると、実は今年は、東海道新幹線の開業からちょうど50周年。

今でこそ東京⇔新大阪間を約2時間30分で結んではいますが、開業当時は新幹線と言えども、実に4時間も掛かっていたようです。
ここで改めて考えてみたいのですが、新幹線は何で速いか、皆さんご存知でしょうか。

例えば、線路の幅が広い、線路が直線である、車体が流線型であるなど、色々ありますが、一番の理由は、全ての車両にモーターが付いているということです。

寝台特急や貨物列車などは、機関車に客車や貨車が引っ張られて動きます。
しかし新幹線は、全ての車体に動力モーターがついています。
それぞれの車体のモーターが、状況に応じてバランスよく動くことで、時速250キロを超えるスピードを出し、安定的にその状態を維持することが出来るのです。

みなさんは「新幹線理論」というのをご存知でしょうか。
動力を一つに集中させずに、それを各車両に分散させることで、加速度やスピードを増すことが出来るというもので、組織論を語る際に時々使われる言葉です。

かつての組織は、寝台特急や貨物列車のように、目的地に向かって機関車のような役割の人が、客車や貨車(組織や社員)を強く引っ張るというイメージでした。

もちろん現代もこのような役割が求められる時代ではありますが、同時にスピードも求められる時代。
激変する環境の中で、組織で動く人一人一人がただ引っ張られる、ついていくだけではなく、一人一人が新幹線のように動力モーターになることが求められています。

目的地に向かって、全員が動力モーターを回転させることで、スピード感を維持しながらも、安定的に且つ確実に仕事やプロジェクトを前へ前へと推進し、スピードと品質の両方を高いレベルで維持することが出来るのではないかと思います。

私たちの会社の行動指針でも、
スピードと品質を高いレベルで両立させながら仕事をしていくことを謳っています。
日々、仕事のシーンでは一人一人が新幹線をイメージしながら、スピード感を持ちながらも高品質な仕事をしたいと思っています。

とはいえ、旅行などでは時々はのんびり各駅停車の旅をしたり、寝台列車に揺られながら雰囲気を味わうことは、それはそれで大切。
普段では目にしないような光景を目にすることも、とても大切なことですね。
(かく言う私も、未だ寝台列車に乗った経験はありませんが…。)


2014年4月3日木曜日

あてずっぽうのよしあし


私は通勤時間が長く、郊外からオフィスまで一時間以上、電車に乗っています。
郊外と都心を結ぶ路線で混雑しているので、最初のころは、なかなか座ることはできませんでした。
顔を知っている乗客が座っている場合は、その乗客の前に立って、下車するのを待つこともできますが、顔を覚えている乗客が必ずしも同じ時刻の同じ車両に乗っているとは限らないので、こういうときは「あてずっぽう」で顔を知らない人の前に立ち、下車を待ちます。

「あてずっぽう」とはいえ、おそらく何らかの判断基準はあるのでしょう。
例えば、カジュアルな格好をしている人は都心までは乗らないだろうな、とか
落ち着かない素振りをしていると、もうじき下車かな、といった程度のものです。
しかし、これが意外にも当たることが多く、最近は、私はかなりの確率で座って通勤できています。

人は、何か難しいことに対して、限られた情報と短い時間の中で判断しなければならないときに、その判断が必ずしも正しくなくても、それなりの出来で素早い判断ができます。
おそらく「あてずっぽう」は、その昔、我々の祖先が、周りのちょっとした変化を察知して、身の危険を感じて素早く逃げるために、あるいは生存競争のライバルを出し抜いて、いち早く獲物を獲得するために、発達した能力なのではないでしょうか。

普段の生活は判断の連続です。
例えば、道を歩いていて車がくれば、危ないからどけようか、そのまま歩いていこうか、また、ランチで定食を食べるとき、おかずから手をつけるか味噌汁からか、などなど、いちいち一生懸命考えて判断していては大変です。
「あてずっぽう」は、短い間にそれなりの出来で判断する、という点では大変便利な能力ですから、無意識のうちに、あらゆる場面で動いているのではないかと思います。

ただ「あてずっぽう」には欠点があります。 
それは、自分の限られた経験や知識、考え、目の前で見えている範囲の状況などから判断するので、時として大きな「偏り」が出てしまい、過ちを犯してしまうのではないか、ということです。

人と人との瞬間的な関係の中でも、人に対する「あてずっぽう」が動いているように思えます。 
初対面の人と話をしているうちに、何か苦手意識を感じたり、ちょっとした言葉遣いや、話の内容から、誤解が始まったりするのも、もしかすると、人に対する「あてずっぽうの偏り」による悪戯なのかもしれません。
(相手も同じように「あてずっぽう」が動いているかもしれません)

所謂、これは、「思い込み」や「偏見」といわれていることです。
もともと「思い込み」「偏見」も、普段の生活の中で意識せずに使っている「あてずっぽう」が起因するものでしょうから、その判断は自分としては当たり前の結論なので、過ちを意識するのは大変かもしれません。

私たち人事の仕事の中では、面接をすることもありますし、面接官の研修をすることもあります。
その時に大切にしているのは、できるだけ「あてずっぽう」を排除して、客観的な判断を行えるスキルを身につけるということです。
もちろん、企業によっては、あえて面接官の主観に任せているところもありますが、それによって大切な人材を見逃すリスクもあることに注意しなくてはなりません。

人との関係の中で、何か様子がおかしいな、と思ったら、自分の人に対する「あてずっぽう」を疑ってみて、「あてずっぽう」に頼らないコミュニケーションによる確認が必要なのでしょう。
「あてずっぽう」は便利な能力ですので、否定するつもりはありませんが、特に人と人の関係では、誤解や無意味は衝突を避けるためにも、人に対する「あてずっぽう」の自分の癖は知っておいたほうが良いかもしれません。

2014年3月25日火曜日

終り良ければ全て良し


厳しい冬が明けてようやく春になってきました。
この3月は年度の最終月であったり、卒業や終業式などの終わりの月でもありますね。
「終わり良ければ全て良し」=「有終の美を飾りましょう」と、如何にも日本的な発想だなぁと思って調べてみると、私にとっては意外だったのですが、実は「終り良ければすべて良し」とは、シェイクスピアの戯曲の題名が由来なのですね。
最後が良ければ、今までの辛かったことや嫌だったことも、みんな忘れて、とてもハッピーじゃないか、という感じは古今東西、変わらないのかもしれません。

例えば、今まで継子いじめにあっていた不幸せなシンデレラが、ガラスの靴のおかげで最後には王子様と結ばれて幸せになる、とか、毒リンゴで永遠の眠りについていた白雪姫が、最後は王子様のキッスで目覚めて幸せになるとか、ハッピーエンドは童話の世界で多いのではないでしょうか。
一方、最後が悲惨な結果になって、何か物寂しい昔話もありますね。

例えば、なに不自由なく幸せに過ごしていたけれど、最後は翁たちを残して月の世界に帰っていくかぐや姫とか、竜宮城で飲めや歌えの幸せな毎日を送っていた浦島太郎が、帰ってきて玉手箱を開けて老人になってしまう、とか。
物語の印象は、最後の終わり方、ラストシーンで決定付けられるような気がします。

実は、心理学によると、人の幸せの感じ方も似たような現象があるようです。
あるイベントや特定の出来事に対する人の幸せの感じ方は、終わりの方で感じる印象(記憶)の度合いで決定付けられることが多いようです。

例を使って考えてみましょう。あなたはどう感じますか?
あなたが10日間のお休みを取って、常夏の島に渡って、経験したことのない素晴らしい景色を見たり、食事をしたり、とても素敵な経験をしてきたとします。

10日間の夢のような素晴らしい経験を終えて、帰国のために空港で飛行機の搭乗手続きをしていました。
そのとき、あなたは運悪く、盗難にあってしまい、お土産なども含む多くの荷物を失ってしまったとします。
さてどうでしょう。
何とか帰国をしたあなたの旅行の印象は如何なものでしょうか?
おそらく、10日間の常夏の島の夢のような経験の印象よりも、最後の盗難という嫌な記憶に大きく影響されるのではないでしょうか?
逆に、出発の時に同じような盗難にあったときはどうでしょう。
(この場合、パスポートやクレジットは何とか無事で旅行にはいくことができて、旅先で少し不自由はするけど最後は楽しかったとします)

心理学によると、人間の心は、幸せを経験している量(例えば、時間の長さ)よりも、幸せの記憶の大きさ、特に最後の方で感じる幸せの印象の度合いで、その出来事の良し悪しを評価するように出来ているようです。

どうやら、「終り良ければすべて良し」というのは、単なることわざや物語の世界だけではなく、実社会でも使えるありがたい教えのようです。
この現象は、他にも応用できそうですね。
例えば、仕事に関わるイベント事を考えるとき、友人や家族との行事を実施するときなど、いろいろと使えそうです。

4月から新入生や新社会人として、新たな出発をする方も多いと思います。
残り少ない3月、ぜひ「終り良ければすべて良し」の精神で、今までの素敵な経験を、素晴らしい思い出にして頂きたいものです。


2014年3月14日金曜日

目標設定は「いてて」のレベルで


最近、若干の体重増が気になり、あるものを押し入れから取り出しました。
それはホコリにまみれて押入れに放置されていた「ビリーズブートキャンプ」のDVD。

そう、10年前に一世を風靡したあの「ビリーズブートキャンプ」に再び入隊してみたのです。
その結果、久しく使っていなかった腹筋や背筋が刺激されたのでしょうか、入隊翌日からピリッとした筋肉痛が襲ってきたのです。いてててて…。
(翌日に痛みがくるのはまだまだ若い証拠なのでしょうか。)

しかし、何日か続けて行くとその「いてて」も段々と弱まり、そしてなくなり、その結果、恥ずかしながらほんのチョットではありますが、シュッとしてきました。

そんな「いてて」の感覚、実は仕事でも同じことが言えるのではないかと思います。

全国で飲食店向けの中古厨房機器を販売する「テンポスバスターズ」という会社があります。
この会社には「テンポス精神17箇条」と呼ばれるものがあり、その中の第11条に「いてての法則」と呼ばれるものがあります。

前屈をして、手のひらを床につけようとすると「いてて」と感じる。
しかし、それを毎日毎日やり続けて行くと「いてて」を感じる位置が下がり、ゆくゆくは「いてて」を感じることなく手のひらを床にペタッとつけられるようになる、という話です。

つまり「いてて」を感じる時というのは、これまでの自分の限界を超えた状態であり、まさにそれが、自分が成長できている状態であるということを、前屈をした時に体に感じる「いてて」になぞらえています。

この「いてて」、私たちの仕事における「目標設定の仕方」にも繋がる部分があります。
いわゆる「ストレッチ目標」の設定です。

少しの「いてて」で達成できそうな目標を定め、その目標達成に向けて頑張る、その目標を達成したら、次に「いてて」を感じながら達成できる目標を定めるという考え方です。
これを繰り返すことが出来れば、いつか自分を振り返った時に、あの時は「いてて」だったけれど、今は全然「いてて」と感じなくなり、自分の成長を大きく実感できることに繋がります。

今、自分の仕事にどれだけ「いてて」な仕事があるか。
その数が多ければ多いほど成長できる余地とチャンスがあり、「いてて」がなくなったら新しい「いてて」を決めて取り組むことに変わりはありません。
いつも「いてて」「いてて」と感じながら仕事がしたいですね。

4月から新しい年度が始まり、私たちの会社にも新入社員が入社します。

仕事でも私生活でも新たな「目標」を定めることが出てくるかと思います。
そんな時、自分にとって「いてて」な目標を定めて見てはいかがでしょうか。


2014年2月20日木曜日

ライフキャリアレインボー


 「時間が足りない!」「1日が30時間だったらいいのに・・」「やることが多すぎてまわらない」
そう思うことは誰でもあると思います。

思い起こせば私もいつも、そう思っているように感じます。
学生時代は、部活に明け暮れ、友達と遊び、試験勉強に集中し・・
社会人になってからも、寝る間も惜しんで仕事に集中していた時期、新たに学びたい勉強と仕事を両立していた時期、そして、あっという間に3児の母となり家庭と仕事の両立をしている現在。

もちろん今もバタバタの生活を送っていますが、そんな私がいつも「ヒント」にしているのが、社会人5年目に「キャリアカウンセラー」資格取得で知った「ライフキャリアレインボー」です。

ドナルド・E・スーパーは「キャリア」を、人生のある年齢や場面の様々な役割の組み合わせであると定義し、この概念をレインボー(虹)に例え、8つの役割を説明しています。


人生における役割は、様々な「場面」、つまり、家庭・学校・職場・地域社会などで演じられるものであるとし、個人はこの役割をいかようにも組み合わせることができるとしています。

学生時代は、①息子・娘、②学生、⑦余暇を楽しむ人、の役割がほとんどだったけど、社会人になると、③職業人が加わり、その役割の比重がかなり大きくなったり、そこでもっと勉強したいことに出会い、②学生(学ぶ人)の役割を付け加えたり。
結婚すると、⑤ホームメーカーの役割が出てきたり、子供を産むと、⑥親の役割の比重が当然増えてくる。
当たり前と言えば当たり前のことですが、この理論を知った時、とても納得し、自分自身の役割を調整していくことの大事さに気づきました。

ではこの理論をどのように活用できるか?
例えば、私が今でもよくやっているのが、現在の①から⑧の役割の比重を数値化させ、本当はこうありたい役割の理想比重を数値化させ、その2つを比べてギャップを見える化することです。
そしてこのギャップをうめるためにどうすれば良いかを考えてみます。
今の私でいうと・・・↓


●息子・娘としての役割は減っているけど、もっと大事にしたい。親と一緒に過ごす時間を作っていきたい。(①)
●社会人としてまだまだ学びたいことはあるから、学生としての役割を少しでも増やしたい。(②)
●配偶者としての役割も昔のようにもう少し増やしたい。(④)
●子供がまだ小さく3人もいるんだから、子供との時間をもっと増やして大切に育てたい。(⑥)
●そのためには、ホームメーカーの割合を減らせないだろうか・・・配偶者と協力できないか。(⑤)
●仕事は現状でも満足できる働き方をできていないが、今の時期は調整して時間を減らすしかない。質で勝負できるように短い時間でも集中して頑張ろう!(③)
●自分の時間は少ないけれど、今は時間を見つけてたまにリフレッシュできているから今くらいで頑張ろう(⑦)

今ここでは、自分の現状と理想のみで書いています。
しかし、その中にはお金や人などでの制限が出てくることも大いにあり、そこも考えていかなければ成り立たないのですが、まずはそのギャップを見える化するだけでもスッキリします。

あとは、上記8つの役割について、自分が10年後どうありたいかを考え、それぞれの役割についてしっかり記述していく方法も有益です。
自分がどうありたいかを役割ごとに明確化することで「キャリア」を考えることができますし、そのために今やるべきことはなんなのか、を考えるきっかけにもなります。

1日24時間、みんな同じ条件の中で、どの役割を選択していくか。
人生における役割は、自分で自由に組み合わせることが出来ます。
その中で自分らしさを見出しながら、自己実現をしようとする、これこそがまさに「キャリア」ですね。
この様々な役割をうまく果たすことができ、本人が満足できる場合に、その人の「キャリア」は成功していると言えると思います。

「ライフ・キャリア・バランス」をとりながら、自分らしく成長していきたいですね!
そのきっかけに「ライフキャリアレインボー」を考えてみてはいかがでしょうか。


2014年2月14日金曜日

Black or with milk ?


皆さんはコーヒーを飲むときはミルクを入れますか?
ミルクがコーヒーの中に広がっていく様子はおもしろいですよね。
ミルクを垂らしたばかりのときは、黒いコーヒーの中に
白いミルクの存在感があって大理石のような感じですが、
だんだんとミルクはコーヒーの中に拡がっていって、
やがて均一になり明るい茶色のミルクコーヒーになっていきます。

このミルクがコーヒーの中に拡がって混ざっていく現象を物理学の世界では
「エントロピー(乱雑さ)が増大する」と言うそうです。
自然界は、意識して特別な力を加えずに、そのまま放っておくと
「秩序のある状態」から「無秩序の状態=乱雑な状態」に向かいます。
これを「エントロピー増大の法則」といいます。

ミルクをコーヒーに垂らした瞬間が、エントロピーが最小な状態で、
時間が経って均一に混じってしまった状態(乱雑な状態)を
エントロピーが最大の状態である、ということです。

エントロピーの増大は、基本的には不可逆な現象なので
何か特別なことをしない限り元には戻りません。
ミルクが均一に混じったコーヒーの中(エントロピー最大)から、
ミルクだけを取り出す(エントロピー最小)には、
そのままほっておいてもダメで、
特殊なフィルターなど特別なモノや力が必要になることは
容易に想像がつきます。

一般に「エントロピー増大の法則」は
自然界の現象を説明するために使われますが、
我々の社会生活の中に於いても適用は可能だと思います。

例えば、人と人との関係性にも「エントロピー増大の法則」が当てはまります。
皆さんの属する組織は、何もしなければ、
自然界と同様「エントロピー増大の法則」に従って
無秩序や乱雑な状態になっていくという訳です。
自分の属する会社や学校、家族が無秩序な状態は大変だし、嫌ですよね。

人との関係性の「エントロピー増大の法則」を抑えるには
どうすればよいのでしょうか?
一度、壊れてしまった組織(エントロピー最大)を
秩序ある状態(エントロピー最小)に戻すには、
ミルクコーヒーからミルクだけを取り出すことが難しいように、
相当な力を必要とします。

強いリーダーシップを発揮する誰かに頼ったり、大掛かりな改革を起こしたり、
いろいろと強力な施策はあるでしょう。
それでも組織に秩序を戻すのは難しいかもしれません。

組織が壊れてしまう前に、
常日頃から、「エントロピー増大の法則」に少しずつ逆らい、
秩序を保つのが得策のように思えます。
これには、日ごろからの簡単な挨拶や、些細なコミュニケーション、
相手を認める行為などがとても有効であると思います。

いろいろな会社に伺うと、単にすれ違うだけでも、社員の皆さんから
心のこもった挨拶をして頂ける会社を見受けることがあります。
所謂「マナー」や「礼儀」「躾」が出来ている会社なのでしょうが、
「私」の存在を認めて頂いて嬉しく思います。
往々にしてそのような会社は社内のコミュニケーションも
円滑に取られているし、会社の雰囲気も良く
高い業績を上げている場合が多いと思います。

当然のことですが会社や組織は人の集まりです。
人数の大小は関係なく、組織の中にいる人々がひとつにまとまって
「秩序のある状態」でないと成果が出ないのは言うまでもありません。
組織をまとめる、つまり人との関係性の「エントロピー増大の法則」に
逆らうには、何気ない「挨拶」や些細な「会話」が
まずはスタートなのではないかと思います。

2014年2月7日金曜日

ジョブクラフティング




NHKのEテレで毎週放送している
「白熱教室」という番組をご存知でしょうか?

ハーバート大学やスタンフォード大学などで
実際に行われた講義がそのまま放送されている番組です。

テーマも様々。

「リーダーシップ」「キャリア」を始めとする
ビジネスに関するテーマ。
「生き方」「幸福とは?」といった
そもそもの人生の根源的なテーマ。
時には「数学」「物理学」「映像技術」など、
様々なジャンルの講義が展開されています。

ひょっとするとご覧になったことがある方も
いらっしゃるのではないでしょうか。

その中の一つ「幸福」をテーマにした「幸福学白熱教室」で
大変興味深い話がありました。


イエール大学経営大学院准教授のエイミー・レズネスキー氏によれば、
人と仕事の関係、つまり「仕事」を自分のどこに位置づけるのか?
ということに関して、

1)Job(ジョブ):報酬の為に働く仕事
2)Carrer(キャリア):向上の為に働く仕事
3)Calling(コーリング):社会的意義の為に働く仕事

の3つがあり、最も幸福度が高いのは
「Calling(コーリング)」だと説明しています。

では、私たちが仕事をCalling(コーリング)と
捉えられるようになる為にどうすべきか?
その3つのアプローチの方法が
「ジョブクラフティング」という言葉で紹介されています。

①「社会的な交流の質や量を見直す」 
②「仕事の意義を拡げる」
③「仕事のやり方や範囲を見直す」

仕事への向き合い方を意識的に変えながら実際に行動に移すことが、
自分自身の「人生」そのものをより幸福なものにできるのかも知れません。

ジョブクラフティングは誰かに言われてやるものではなく、自分がすること。
自分の人生をより幸せに過ごしたいと思うのであれば、
人生を「主体的」に生きるとまず「決意」することなのではないでしょうか。


現在弊社では、2015年度の新卒採用活動を行っていますが、
2月に学生のみなさんに向け、
「ワクワクドキドキできる就職活動~活躍できる社会人になる為に~」
というテーマで就職活動応援セミナーを予定しています。

仕事とは何なのかをもう一度見直してもらい、
将来に繋げる就職活動にしてもらいたいと思っています。

今後私たちも人事コンサルティングの仕事を通じて、
関わる多くの方々が仕事を「Calling」として捉え、
仕事に費やす時間を「お金では買えない価値あるもの」にできる、
そんなサービスを提供したいと思います。


2014年1月31日金曜日

オリンピックイヤーに学ぶもの


2014年になりました。
来月にはソチオリンピックが開催されます。
なんといっても注目は男女フィギュアスケート。
私たちの会社でも関わる機会があり、
その動向をいつも楽しみに見ています。

フィギュアスケートというスポーツは、美を競うものではありますが、
実際は非常に強いメンタルが必要な、心の力が問われるスポーツだと感じます。
私たちが社内研修で行っている「ライフスキルトレーニング」でも
多くのスポーツ選手の事例を参考にしながら、
どんな時でも自分の精一杯の力を発揮できるような心の状態を
自分で作るにはどうすればいいか、トレーニングを行っています。
揺らがず、とらわれない「フロー」な状態を作るための「ライフスキル」。
フィギュアスケートの選手達の「ライフスキル」は、
尊敬に値するものがあります。

しかし実はこの時に、周囲の人々との関係性も
その自分の力として還ってきているような気がします。
例えば苦楽を共にしたコーチとの関係、支えてくれる家族との関係、
そして一緒に戦うライバルも含めた仲間との関係。
年末に行われた大会でも、自分ではない選手の応援をする選手の姿
自分が出られなかったのに仲間のオリンピック出場に
感激する選手の姿などが見られました。
人に対する「感謝」や「応援」の気持ちは、実は自分の心の状態にも
プラスに働くと言われています。
一流の選手たちのインタビューを聞くと、もれなく「感謝」の気持ちが
入っていると思いませんか?面白いくらいにもれなく。

今年からフィギュアスケート団体戦が種目に追加されました。
男子シングル、女子シングル、ペア、アイスダンスという4種目で
競われます。
そこでもきっと日本人選手の「応援」や「感謝」の気持ちが
いい方向に発揮されることでしょう。

「個」の力を発揮しつつ、集団での力を発揮する。
スポーツにはたくさんのチーム作りのヒントが隠れています。

私たちもそれを刺激に、成果を生み出せる個人そして組織としての
成長を果たせる一年にしたいと思います。