2014年8月21日木曜日

流される、流れてみる


3か月前に手術をした私の膝は、あまり芳しくなく、歩行中に痛みがあり、少し長い距離を歩くには杖が必要です。
痛みに耐えながら杖に頼った歩行を続け、リハビリで回復のチャンスを待つか、思い切って人工関節に代えるかのようですが、人工関節の場合、手術も大掛かりになり、膝間接が直角からそれ以上鋭角に曲がらないという後遺症を抱えてしまうようです。
特に膝を酷使したつもりはなかったのですが、加齢による衰えから遅かれ早かれ、降りかかる現実だったのかもしれません。

と、結構残念な状況なのですが、私自身はあまり落ち込んでいる訳ではありません。
もちろん、膝の痛みは辛くて嫌ですし、杖の歩行は不自由で面倒です。
一時期、なんでこんな目に合うんだと思ったこともあります。
しかし、杖を突いて歩いていると、結構面白いことに出会ったり、新たな発見があります。
杖を突いて満員電車に乗っていると、たまに席を譲ってもらうことがあります。長距離通勤の私にとっては大変ありがたい話です。
久々に知人に会ったときは、たいてい驚いて様子を聞いてくれますが、膝の話題でだいたい10分は話が盛り上がります。
また、初対面の人にお会いすると、何となく怪しげな雰囲気があるようで、そこで立場的に有利?に立っているような気がします。(気のせいだと思いますが)
駅の階段の上り下りや歩道の状態から、身障者の方は大変だな、と気付いたり、調べてみると私のように膝を痛めている人が老若男女問わず多く、何かビジネスチャンスがあるのではないかと思いを巡らせたりします。
これは、私のやせ我慢のように聞こえるかもしれません。事実そうかもしれませんが、これも考え方なのかな、と思います。

改めて言うまでもありませんが、人生、いろいろな事が起こります。
自分にとって、幸運が起こったり不幸が起こったり、幸運だと思ったら不幸だったり、その逆だったり、自分の思うとおりにコトが進む方が珍しいかもしれません。

突然病気になったり、事故に巻き込まれて怪我をしたり、身体的な問題だけではなく、環境の変化で自分の仕事が変わったり、無くなったり、自分の思い描くキャリアでない方向に進みだしたり、あまり考えたくないようなことが起こるかもしれません。
そんなとき、現実にあらがって、何とか流れを変えようとすることもできるかもしれませんが、変えることができることと、できないことがあるように思えます。

こんな時、皆さんならばどうするでしょうか?
諦めて運命に任せて流されるのか、無理だと思っても流れに逆らって何とかしようともがくのか…。

私は「流される」のではなく「流れてみよう」と考えています。
「流される」のと「流れてみる」は、似たような状態かもしれませんが、随分と意味合いが異なります。
「流れてみる」には自分の意志・覚悟が必要だからです。

運命の濁流にただ「流される」だけだと、途中、渦巻きに巻き込まれたり、大きな岩にぶつかって、おぼれてしまうかもしれません。
「流れてみる」は自分の意志で流れているので、渦巻きや大きな岩も冷静に見えて、避けることができるかもしれませんし、時には流れながら周りの景色を眺めたり、新たな発見をすることで、流れることを楽しむことができるかもしれません。
流れている間に、流れが穏やかに変わるか、都合の良い方向に流れだしたら、そこで大きく自分の思った方向に泳ぎだしてみればよいと思います。
もちろん、「流れてみる」のも、流れに乗るためには、一生懸命頑張って泳ぐ(全力を尽くす)必要があると思います。
そうしないと「流れてみる」から「流される」状態になってしまうからです。

「流れてみる」ためにはどうすればよいのでしょうか。
私は、まずは受け入れてみることが大事なのだと考えています。受け入れてみれば状況を冷静に判断でき、流れ方もある程度見えてくると思います。
そうすれば「流れてみる」意志・覚悟も固まってくるのではないでしょうか。
「流れてみる」意志・覚悟ができれば、あとは全力を尽くして流れに乗ってみるだけでしょう。

怪我や病気のように突発的な出来事は、今すぐにでも起こるかもしれません。
また世の中の動きや自分を取り巻く環境は、時には自分の想像を超えて、大きく速く変化していることがあります。
好むと好まざるとにかかわらず 、運命の濁流は私たちに襲い掛かってくるのでしょう。
運命の濁流に対しては、「流される」よりは「流れてみる」方が楽しく思いますが、如何でしょうか?


2014年8月8日金曜日

ちりも積もれば152日


みなさんは一日の中でどれくらい「探し物」をしているでしょうか。
ちょっとイメージをしてみて下さい。

いかがでしょうか?
例えば、朝起きてから家を出るまでの間、家の鍵や携帯電話、財布などを探すことがあるでしょう。

会社に来れば、探し物はもっと増えていきます。
「あの時作ったパワーポイントの提案資料の最新版はどれだっけ?」
「会議の資料、サーバのどこに保管してあったっけ?」
「○○の案件に関するクライアントさんからのメールはどこ行ったっけ?」
「この間もらった紙ベースの資料、キャビネットのどこに閉まったっけ?」
みなさんもこのようなシーン、毎日何度も経験しているのではないでしょうか?

我が家でも、テレビのリモコンや携帯電話の充電器が見当たらなくなることがしばしばあります。
部屋のどこかにあるのは分かっているのですが、「どこいった?」と大騒ぎに…。
お恥ずかしい話、つい先日、ショッピングモールに停めた自分の車の駐車場所を見失い、探したこともありました。

こうして見てみると、私たちの生活の中で「探す」というシーンは、たくさんあることが分かります。
では人は一日にどのくらい「探す」ことをしていると思いますか?

諸説ありますが、平均するとおおよそ一日当たり約10分を「探す時間」に費やしているそうです。
一日の中における10分…。これだけ見ればそんなに大した時間ではないと思うかも知れません。

ではこれを1ヶ月繰り返すとどうなるでしょう?
実は10分×30日=300分(5時間)になります。
本が数冊読めるような時間でしょうか。

次に1年365日で考えるとどうなるでしょう?
10分×365日=3,650分、時間に直すと約61時間、約2.5日分に相当します。

日本人の平均寿命を仮に80歳としてみましょう。
(つい先日、日本の男性の平均寿命も80歳を超えたそうです!)
成人になって以降、80歳までの約60年間に換算してみると…?
10分×365日×60年=219,000分、時間に直すと約3,650時間、約152日分になります。
152日あったら、ちょっとした資格が取れるかも知れません。

あくまでこれは「論理上」の話ではありますが、大事なことは、私たちは人生の中で152日間分の大変貴重な時間を「探す時間」に費やしているという「事実」です。

いかがでしょうか?

この探す時間、可能であれば減らしたい、なくしたい時間ですよね?

自分の部屋、会社のデスクやキャビネットなどの整理整頓が苦手な方、例えば、ありとあらゆる資料が山積みになったデスクで仕事をしている方、パソコンのデスクトップ画面いっぱいにファイルやフォルダが散在している方などは、一日の中で探す時間は10分よりも全然多いかも知れません。
そうなると当然「探す時間」は152日を遥かに超える時間になります。

結果、探し物が見つかるのであればまだしも、結果的に見つからなかったとすると、本当に何も生み出さず、ただ時間を失っただけという顛末になります。

では何をすべきか?
自分の机の周りの整理整頓をする、いらないものはドンドン捨てる(いわゆる断捨離)、自分の中で置き場所のルールを決める、メールや資料のタイトルにルールを付けるなど、ちょっとした「分かりやすい」工夫をすることで、探し物で失ってしまう時間を自分の時間にあてがうことができるようになります。
そこには新しい視点やアイデアが沸きだし、結果として「効率化」にも繋がります。

もちろん、整理整頓をしたからといって、152日分のまとまった時間を確保できるわけではありませんが、ちょっとした時間を別の時間に費やすことができたり、探す時の「イライラ」自体をなくしたり、私たちにとってはプラスになることの方が多いのではないでしょうか。

「ちりも積もれば山となる」とは、まさにこういうことですね。
整理整頓、ちょっと面倒だなあと思われるかも知れませんが、是非機会を見つけてやってみてください。