2014年9月29日月曜日

大事な時間の本質とは?


先日、歯の奥がズキズキと痛み出したので、歯医者に行って来ました。
診療の結果は、以前治療した詰めものがすり減って、ポロッと取れてしまったとのこと。

その場で詰めものの処置をしてもらい、ついでに歯石の除去や歯の洗浄をしてもらいました。
私の中では普段こまめに歯磨きはしている方なのですが、それでも磨き足りない部分が残っているようだとの話。
「次週詰めた箇所の様子を見たいので、また来てもらえますか?」と歯医者さん。

会計時、「半年後くらいに歯の検診のご案内をするDMを送りますね」と言われ帰宅。
思えば歯医者に行く度に同じような話を言われ、必ず半年後くらいにDMが来るのですが、お恥ずかしながらわざわざ検診のためだけに歯医者に行ったためしがありません。
まあ、今じゃなくても、もう少し後でもいいかな…なんて思いながら、結局行かないわけです。

しかし、そうこうしていると数年に1回くらい、歯が痛くなったり、虫歯のような症状が現れます。
忙しい合間を縫って歯医者の予約をし、1カ月の間に何度も何度も通い続けるということがあります。

ふと思ったのですが、これは仕事にも同じことが言えるのではないでしょうか?

普段からちゃんとやっておけばいいものを放置したり、先延ばしにしたりすることで、何か問題が発生すると、その収束に余計に時間や手間を掛けてしまうケース。
そういう問題は必ずと言っていいほど突発的に発生するので、他の仕事にも影響が出てきます。

問題が解決すると、解決したことにホッとしてしまい、原因分析や再発防止策の検討をしない…。
検討をしたとしても、それをキチンと行動に移せないまま、放置をしてしまう…。
すると、忘れた頃にまた同じような問題が発生して、対処に追われてしまう。
こういったことの繰り返し、意外と多いのではないかと思います。

これは私の歯医者さんの話に例えると、歯が痛くなってから対処をしようとしているわけです。
虫歯を治すためだけに、足しげく歯医者に通い、時間とお金を消費していることと同じです。

しかし、定期的に歯のチェックをしていれば、虫歯の兆候も分かりますし、歯も綺麗になりますし、もし仮にそこで何かあっても初期段階で治療ができるので、時間もかからないでしょう。

虫歯になり慌てて歯医者に駆け込むのは、仕事に例えると「緊急かつ重要な仕事」です。
虫歯を放置すれば、さらに悪化するわけですから、一刻も早く治療を要する大事なことです。

これをみなさんの仕事に置き換えてみると、どんなものが挙げられるでしょうか?
例えば、納期ギリギリになって行う資料の作成、社内システムのトラブル、関係者の認識のズレから発生する諸問題、お客様からのお叱りのクレームなど、いろいろあります。
対応が済んで振り返ると、「あー、普段からこうしていれば…」と後悔するわけです。

では、定期的に歯医者さんで歯のチェックをしてもらうことはどうでしょう?
これは「緊急ではないが重要な仕事」と捉えられます。

いまこの瞬間、自分の歯に大きな問題は起こっていないので、緊急性はありません。
では何故、緊急性がないにも関わらず、それが「重要」になるのでしょうか?
それは、「緊急かつ重要な仕事」を発生させないようにするための仕事だからです。
先ほど事例で挙げた「緊急かつ重要な仕事」、みなさんも可能であれば避けたいと思いませんか?

では、こちらをみなさんの仕事に例えると、どんなものが当てはまるでしょうか?
社内外の人との人間関係の構築、定期的なシステムのメンテナンス、仕入れ先や取引先への監査、業務手順書やマニュアル類の修正、本を読んだり講演に参加したりする時間などがそれに当たるでしょう。
まさに何かあった時に、「あー、普段からこうしていれば…、あの時こうしていれば…」と思うことばかり。

ただ「緊急ではないが重要な仕事」をどんなにしっかりやっても、悲しいかな「緊急かつ重要な仕事」が発生することは避けて通れません。
しかし、間違いなく言えることは、その発生の「頻度」や「確率」を抑えることができるということ。

「緊急な仕事」は、どうしてもイライラしてしまうことも多分にあるでしょう。
当然精神的にもストレスが掛かるでしょうから、好ましいことではありません。

私たち一人一人にとっての「緊急ではないが重要な仕事」って何なんだろう?というものを洗い出し、それを毎日コツコツとやることで、よりパフォーマンスの高い仕事ができるのではないでしょうか。
「緊急ではないが重要な仕事」が、実は仕事の「本質」なのではないかなと思います。

私たちの会社も「本質」をものすごく大事にしています。
つまりそれは「緊急ではないが重要な仕事」にパワーを注ぐこと。
更にこれは仕事だけでなく、人生における時間の使い方でもまったく同じ。
その時間の割合を増やしていくことで、より豊かな人生を歩みたいですね。


2014年9月16日火曜日

Let It Go ~ありのままで~(後編)


先日、妻と一緒に映画「アナと雪の女王」日本語吹き替え版の映画を見てきました。
素晴らしい映像とディズニーらしいストーリーで只々感激でした。
この映画をもとに、前回に引き続き、「誠実」について考えてみたいと思います。

前回は「誠実」であるということは、「自分を必要以上に大きく見せない、見ない」、そして「自分を必要以上に小さく見せない、見ない」、つまり、「自分をありのまま受け入れる」ことだとお話ししました。
では「自分をありのまま受け入れる」にはどうすれば良いのでしょうか。

「ありのまま」というと、映画「アナと雪の女王」の挿入歌の「Let It Go ~ありのままで~」を思い出す方も多いのではないでしょうか。
雪の女王のエルサが、触れたものを氷に変えてしまうという自分の魔力が嫌になり、人を傷つけないために山奥の氷の城に閉じこもるシーンで、「Let It Go ~ありのままで~」(松たか子バージョン)が流れます。
エルサが変わっていく様子が印象的に表現されていました。 

曲名の「Let It Go」と「ありのままで」という言葉ですが、英語と日本語では意味合いが違うようです。

英語の「Let It Go」は、「嫌なことは放っておきなさいよ!」とか「そんなこと気にしないで」という意味合いのようです。
一方、日本語の「ありのままで」は、「偽りのない」や「そのままで」という意味合いなので、少しニュアンスが違いますね。
エルサが氷の城に閉じこもるシーンで流れる「Let It Go」は、英語の意味合いがフィットしていると思います。
「もう人を傷つける自分がイヤ!誰もいないところで気にしないで生きるの!」という感じでしょうか。

エルサが氷の城に閉じこもった後、いろいろな出来事が起こるのですが、自らの体を張った妹のアナの犠牲を代償として、エルサはやっと「ありのままの自分」を受け入れて、自分の城に戻ってきます。
また、妹のアナも、ありのままの自分の気持ちに気づき、本当の愛が何なのかを知ります。
最後はハッピーエンドでエンドロールに入り映画は終わりなのですが、この時に流れる「Let It Go ~ありのままで~」(May J.バージョン)は、日本語の意味合いが合っていると思います。
同じ曲でも、松たか子バージョンとMay J.バージョンは曲調も違いますよね。
これは日本語吹き替え版だけの話ではなく、英語版も当然ですが、すべての言語の吹き替え版で2パターンの曲が使われているそうです。
映画を面白くする効果的な演出なのでしょうね。

ところで、「自分をありのまま受け入れる」のはどうすればよいでしょう。

「アナと雪の女王」のエルサは、最初、自分の嫌なところから目を背き「Let It Go」と氷の城に閉じこもるのですが、いろいろな出来事を通して、犠牲は伴うけれど自分と向き合う恐怖を乗り越えて、「ありのままで」自分を受け入れることになりました。
この映画から教えられることは、「自分をありのまま受け入れる」には、嫌な自分にも目を背けず、勇気を持って、自分と正面から向き合う、つまり、自分を知ることから始めることではないかと思います。
自分を知ることは、決して「Let It Go:嫌なことは放っておきなさいよ!、そんなこと気にしないで」ではダメで、大変勇気がいることをエルサは教えてくれているように思います。

自分を知るには、いろいろな方法があると思います。
深く自問自答して「出来ること」「出来ないこと」「好きなこと」「嫌なこと」を考えてみる。
MBTIなど自己認知のツールを使ってみる。などなど、やり方はさまざまです。

他人からフィードバックを受けるのも有効な手段です。
人は自分自身のことがなかなかわからないと言われていますが、確かにその通りだと思います。
ですから、他人からのフィードバックは自分を知る上で大変有効なのだと思います。

しかし、時として他人からの自分を見る目や評価は、とても辛く苦しいことがあります。
自分を知る、ありのままに受け入れることは、同時に見たくない自分をさらけ出すことでもあり、大変に勇気が必要なことだと思います。
でも、一旦、ありのままの自分を受け入れてしまえば、「出来ること」と「出来ないこと」が判り、「出来ないこと」については、どうすれば出来るようになるのか、自らの成長の課題を発見できるチャンスにもなるのだと思います。
「誠実」であること「自分をありのまま受け入れる」ことは、勇気をもってチャレンジする価値のあることではないかと思います。


2014年9月12日金曜日

Let It Go ~ありのままで~(前編)


好きな言葉は何ですか?と聞かれると、私は「誠実」と答えています。
「誠実」という言葉を聞いて皆さんはどのようなイメージをお持ちでしょうか?
「あなたはとても誠実な人だ」「何事に対しても誠実な対応ですね」と言われれば、とんでもない「ひねくれもの」を除けば、嬉しいですよね。
おそらく、総じてポジティブなイメージを持たれているのではないでしょうか。
辞書で意味を調べてみると、「誠実:私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま」とあります。
どうやら、「誠実」という言葉を成立させるためには、対象となる人や物事が必要なようです。

ところで「誠実」の対象を人とした場合、その人は自分以外の誰か、つまり他人なのでしょうか?

一般的には、自分以外の誰かを対象として「誠実」であるとするのが、イメージを作りやすく思います。 
「私は家族に対して誠実である」「私はお客様に誠実な対応をする」といった具合です。

では、自分に対して誠実であるということは、あり得るのでしょうか?また、それはどのようなことなのでしょうか。
「自分に誠実である」ということは、「自分に正直である」ということに近いような感じがしますが、少し違うような気もします。
そもそも自分に正直であったら、自分のやりたいことばかりになってしまい、私利私欲や我儘になってしまうことも考えられます。
その結果が、本当に自分自身を幸せにするかは分かりません。
誠実の対象の自分を不幸にしてしまう、つまりポジティブな状態にしないこともありえるとなると、これは誠実とは言えないのではないでしょうか。

それでは「自分に誠実である」というのはどのような状態なのでしょうか。
私は「自分に誠実である」というのは、「自分を必要以上に大きく見ない:過大評価しない」、そして「自分を必要以上に小さく見ない:過小評価しない」ということ、つまり、「自分をありのまま受け入れる」ことだと思います。
「見ない」を「見せない」に置き換えると「自分以外の他人に対しても誠実である」ということの意味にもなりますので、他人に対しても自分に対しても「誠実」であることと同じことであることだと思います。
つまり「自分をありのまま受け入れる」ことは、自分に対しても、他人に対しても「誠実」であることなのです。

人は人生の中で、成功や失敗を繰り返して得手不得手を知り、喜怒哀楽を感じて自分の嗜好に気付き、自己を形成していきます。
その過程で、多くの人との関わりあいを通して、承認をされることで、自分が何者なのかを確認し、自己を確立していくのだと思います。

しかし、他人からの期待に応えたい、逆に馬鹿にされたくないなど、必要以上の大きな承認を得たいとの欲求から自分を大きく見せたり、逆に自信がないところには関わりたくない、恥をかきたくない、という思いから、自分自身を小さく見せることがあります。

他人に自分を必要以上に大きく見せ、他人に過度な期待をかけ、結果が伴わなくて迷惑をかけたり、過度な期待に負けて自分が苦しくなってしまうことはないでしょうか。
あるいは自分を過小評価してしまい、新しいことに取り組むことを躊躇してしまい、せっかくのチャンスを逃してしまうことはないでしょうか。
または、本来は他人にきちんと対処することで解決する問題を、関わりたくない、難しいということで逃げてしまい、他人に対して迷惑をかけることはないでしょうか。
これはとても「不誠実」なことに思えます。

それでは、「誠実」であるために「自分をありのまま受け入れる」にはどうすれば良いのでしょうか。
これは、自分自身のことなので一見簡単なことのように思えます。しかし自らを振り返ってみたときにどうでしょうか?
意外と難しく、乗り越えるハードルが高いように感じます。

ところで「ありのまま」と言えば、最近、大ヒットした映画「アナと雪の女王」の挿入歌「Let It Go ~ありのままで~」を思い浮かべます。
皆さんは、あの映画をご覧になりましたか?
「Let It Go ~ありのままで~」は、映画の中で流れる「松たか子バージョン」とエンドロールで流れる「May J.バージョン」があるのを皆さんご存知ですよね。
皆さんはどちらのバージョンがお好きですか?

実は、主人公の一人、雪の女王エルサが、「ありのまま」の自分を受け入れるヒントを映画の中で与えてくれています。
また、そこに2つの「Let It Go ~ありのままで~」が効果的に使われているのです。
次回は、「アナと雪の女王」を題材に「ありのままで」自分を受け入れることについて考えてみたいと思います。